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2010年 01月 20日
科学技術で取り出した遺伝子を別の種族に組み込むのは、
本来的には「生命とはなにか」という関心に応える作業であり、 新品種作成とは異なる研究だと感じる。 それをわざわざ青い薔薇でやってみせられると、 科学的関心からの逸脱を感じて落ち着きが悪い。 話題性がある組み合わせだと予算がおりるのか、 青い薔薇ができたら金にもなって「社会貢献」か、と邪推が働く。 薔薇の人工交配をしている自分が、 遺伝子組み換えにははっきりと抵抗感があるのを見ると、 人の手で新しい命を生み出すことへの自分の抵抗感は、 どのあたりから生じるのかといぶかしくなる。 自分が人工交配をする作業自体には、 蝶や蜂や風の代役をつとめている感覚しかない。 父母種の選択には個人的な意図が入るが、 「自分の大好きな薔薇と、自分の大好きな薔薇から、 自分の大好きな薔薇が生まれて欲しい」という思いは、 「このひとのこどもが生みたい」という思いと、 わたしの中ではさほど変わらない。 科学者にとっては、 「人の青の遺伝子を植物に入れる」作業も、 蝶や蜂や風の代役の延長にすぎないのだろうか。 遺伝子の組み換えという手段にわたしが不信を抱くのは、 地球が何億年も営んで来た生命誕生の仕組みからの、 逸脱の度合が大きいからだけなのか。 植物も人間も「生命」だから、 遺伝子を交換することに抵抗はないと、 多くの人が感じる時が、いずれ来るのだろうか。 人工授精はおろか異人種の結婚にさえ抵抗が、 まだ根強くあるのが社会の現状なのだが。 “A Rose by Any Name”によると、 「ロサ・ペルシカは実際は薔薇ではなくて フルテミア・ペルシカという別の属の植物だ」 と主張する薔薇研究者は多いそうだ。(p.29) 野村和子の『オールド・ローズ花図譜』では両論併記されており、 まだ定説がない段階なのだろうと推察する。 ロサであろうとフルテミアであろうと、 ペルシカを片親に持った薔薇は次々と生まれている。 1980年代には、チグリス、ユーフラテス、ナイジェル・ホーソン。 2000年代には、オランダのインタープランツ社の、 バビロンローズ・シリーズ。 人間が生き物をどう分類しようと、 どのような手段で新しい命を授かろうと試みようと、 生まれないものは生まれず、育たないものは育たない。 結果として生まれた命については、 社会で祝福される存在であって欲しいと願う。 「青い刺」は、そんな素朴な願いを抱くわたしの胸に刺さり、 体内で動き回り、痛みをともなうあれこれの連想を呼び起こし続けている。 青いミニ薔薇を求める気持ちが生んだ「若紫」。 この寒中に、普段の倍の大きさ、直径6cmで咲いている。
by pippinrose
| 2010-01-20 10:24
| 活字
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Comments(9)
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plum
at 2010-01-21 21:57
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ぴぴんさんの“A Rose by Any Name”/青い刺-1
の記事を読んで、私が日頃バラの挿し木や種まきをせっせとやっているその発想、 いずれは青いバラを作りたい、そういう方向にいきかねないのではないかと思いました。 そんなつもりはないのですけどねえ(汗) で、こちら“A Rose by Any Name”/青い刺-2 を読ませていただいて、そうか、金にもなって「社会貢献」! でもきっと現代バラの多くの品種もそうやって生まれたのですよね。 植物って生命としては人間よりはるかに大先輩ですよね。 植物に学ぶことっていっぱいありそうですよね。 そんなふうに植物やバラを見るとサバイバル方法とか すごく興味深いなあなんて思ってきたのですが。
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ぴぴん
at 2010-01-22 09:33
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plumさん 野生種や自然交配種の選抜、
枝変わりや花粉のできない八重の挿し木、 人工交配、放射線照射や薬剤投与、遺伝子組み換えは、 人間の同一の意図を下敷きにした行為の発展形だと感じます。 人体と植物の遺伝子が共有できるところに、 「同じ地球生命なんだなぁ」という感動は、わたしはありました。 ただ、歴史の浅い営みは、 どんな結果を生むか分からないところがうす気味悪いです。 珍しいものが見たい一般の欲望や、 知的欲求で動く科学者や、 売れる商品が欲しい商社の、 どの欲も、それだけが突出すると危ういのだと感じます。 自分の毒素で大繁殖が止まるセイタカアワダチソウのように、 欲望の生んだもので人間の大繁殖が止まるかもと思ったりします。
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sakillus at 2010-01-24 23:39
人間の発生でいえば、受精直後ではどのような器官にもなれるような融通性のある細胞であったものが、その後分裂を繰り返し、8日目以降には決まった(脳なら脳という)器官の細胞へと変わってゆくのだそうです。
カエルやイモリの実験でも、胚葉の一部を切り取り他の部分と入れ替えると、とんでもないところに脳がくっついたカエルやイモリができてしまうとか。 そこからおもうに、人間のその遺伝子は人間のための遺伝子であって、バラのためのものではないとおもいます。 また、遺伝子組み換えなど、「できる」ことと「やってよいこと」は違うのだともおもいます。 蝶や蜂や風を利用する植物、バラなどは、きれいな花を咲かせて、人間さえも種の保存に参加させようともくろんでいるのかもしれませんね。 あと、2008年に出たModern Roses 12では、フルテミアは消えたようですね。バラとは何かを定義する「複葉であることと托葉のあること」がないというのが理由のようですが。
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ぴぴん
at 2010-01-26 11:20
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sakiさん 何が人間のためのもので何がそうでないのか。
わたしには「よく分からない」というのが、正直なところです。 そして、「よく分からないことには慎重に」と思います。 また同時に、「何が人間のためのものであるか」という線引きや、 「よく分からないこと」に対する態度を、 人々が必ずしも共有していないことが、最も将来への不安を呼びます。 「できる」と「やってよい」は、もちろん、イコールではありませんね。 ひとはひとをころすことが「できる」。けれどもそれを「してはいけない」と、 何千年も言い続けながら、やり続けている。 その歴史を考えると、ひとは遺伝子組み換えもやり続けるだろうと思います。 その結果がどんな世界を形作る結果になるのかも、 わたしには「よく分からない」。 あまりひどいことにならないようにと、願うばかりです。 薔薇は無心に咲いているだけかもしれませんが、 結果として風も虫も人も、同じ役割をしています。 花のおかげで風や虫と一緒になれることは、 わたしにとってはくすぐったいような、うれしいことです。
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ぴぴん
at 2010-01-26 11:21
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sakiさん つづきです。
「フルテミアは消えた」というのは、 これまで「ロサ・ペルシカ」とも呼ばれていた「フルテミア・ペルシカ」は、 「Modern Roses 12から外された」という意味ですね。 「フルテミア・ペルシカ」の遺伝子は、 「ハイブリッド・フルテミア」のバラとして、バラ界に残る。 さて「フルテミアの遺伝子」は、 「バラのためのもの」であったかなかったか... なかなか、アナーキーな世界です。
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sakillus at 2010-01-26 16:08
ぴぴんさん、わたしのいい方が悪かったのかもしれませんが、わたしが、「〜〜のための」と言ったのは英語で言うforの意味ではなくて、もっと強い意味です。
「それになるべくしてなった」という。それは生成過程のことなので、ややもすれば心情的な意味でとらえられやすい〜のためという意味ではないということだけよろしく! 人間の体はもとより、植物の体も思っている以上にたくみにつくられているとおもうのです。それは「誰の、何のための」という人間的なおもいのらち外にあるとおもうのです。 >「フルテミア・ペルシカ」は、「Modern Roses 12から外された」という意味ですね。 そうです。 まぁ、植物は分類なんてこと関係ないですからね。^^。 ハイブリッド フルテミアはどういう扱いを受けるのかなぁ?
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ぴぴん
at 2010-01-27 09:11
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sakiさん う〜ん... 何度かくりかえして読んだのですが、
“英語のfor”とsakiさんの言うのが何かも、 “人間のための”“バラのための”とは“もっと強い”意味だとsakiさんが言われるのと、 “心情的な意味でとらえやすい〜のための”“「誰の、何のための」という人間的なおもい”と言われるのの違いも、 わたしが何をどう誤解したとsakiさんが思ったのかも、 なんだかよく理解できませんでした。すみません。 >人間の体はもとより、植物の体も思っている以上にたくみにつくられているとおもうのです。 >それは「誰の、何のための」という人間的なおもいのらち外にあるとおもうのです。 という部分を読むと、 わたしが先のコメントで「よく分からない」と書いたところと、 同じところをsakiさんは言っているような気がするのですが… それも誤解かしら…??? ことばって不自由です。 ハイブリッド・フルテミア。 定義によれば、たとえ同じ実から出た兄弟種であっても、 「複葉であって托葉がある」のは「バラ」 それらがなければ「フルテミア」ということになるんでしょうね。
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saki
at 2010-01-28 17:19
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ひもといてゆく作業はよりいっそうわけわからなくなりそうなのですが、第一のコメントで「〜のための」という言葉は使わない方が良かったのです。そこをとっぱらって「人間の遺伝子になるべくしてなったもの」とおきかえてくださるといいです。その意味でもっと強い意味だと言ったのです。(ややこしくてすみません。)
人間の体も植物の体も完璧なまでの理と美をそのうちに持っている。それを十分に発揮、開花せずしてなぜ欲をもつのか?ということなんです。 人間とバラの遺伝子は置き換え可能か否かの問いはほとんど無意味だとおもうんです。 と、ちょっと強気で言ってみましたが、本当の気持ちです。
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ぴぴん
at 2010-01-29 09:54
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sakiさん ほぉ、おきかえるといいと… では、やってみましょう。
…なるほど、 「なるべくしてなった」のは、そうだろうとわたしも思います。 その必然に手を出す不自然に、わたしも抵抗を覚えています。 >人間とバラの遺伝子は置き換え可能か否かの問いは 「ほとんど無意味」だとsakiさんは思われる。 その思いを共有するひとも多いだろうと思います。 一方で、 >人間とバラの遺伝子は置き換え可能か否かの問いは 「とても意味がある」と考え研究してきたひとたちがいて、 そのひとたちにとっては、 >人間とバラの遺伝子は置き換え可能か否かの問いは 「可能である」という回答が既に出てしまった問いにすぎないという意味で、 「ほとんど無意味」でしょうね。 彼らは今は、「どのように可能か」「どこまで可能か」を問うている。 わたし自身は、人類がそういうところに来ていることに気づいてすらおらず、 考えているうちに逃げ水のように遠くへ行ってしまう問いについてゆけず、 とまどっています。
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