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2011年 04月 01日
この三週間に読んだネット上の文言のうち、もっとも虚を突かれたのは、
原発事故発生の数日後に書かれた、次の文章だった。 <前略> 原発は(少なくとも今の福島原発は) 「風の谷のナウシカ」のマンガで出てきた巨神兵と似ています。 恐るべき破壊力をもっていますが、心は子供のよう。 痛んだ身体を背負いながら泣きながら母を捜している幼子のようです。 どうぞ、あなたが原発に向けている否定のエネルギーを 感謝のエネルギーに代えてください。 原発があったから今まで私たちは豊かに暮らしてこれたのです。 原発を作ったのは私たち人間です。 要するに原発の親は私たち人間です。 原発が負傷をおって放射能を出しているからといって、 原発が悪いわけではありません。 問題は危険を承知でそれを作った人間にあります。 私たちは原発の親であるのに、 子が負傷して危険になったら悪者扱いをして すごい否定のエネルギーを送っています。 原発は自分の存在を親に否定された傷ついた子供のようになっています。 人間に例えて想像してみてください。それがどんなにつらいことか。<後略> 漫画版の『風の谷のナウシカ』を読んでいない方には、 イメージが湧きにくいかもしれない。 「毒の光」を放ち周囲を破壊する「巨神兵」。 自分を「ママ」と慕う彼を前に、ナウシカは思う。 「……… わたしはこの子の死を願っている それなのに母親のふりをして 笑顔ではげましたりして」(第7巻p.22) ナウシカは巨神兵に「オーマ(無垢)」という名を与え、母親の役を引き受ける。 それよって巨神兵との関係が深まり、細やかなやりとりが可能になる。 * * * * 自分が原発の親だと、心から思えるひとは多くはあるまい。 自分は「普通の人間」であり「何も悪いことはしていない」 「責任は他の誰かにある」と感じるひとの方が多かろう。 獣木野生の漫画『PALM』の26巻で、登場人物のひとりは、 環境破壊の問題に対し「わたしたちは悪い」と言う。 「人間として普通に生活することが すべての汚染や環境破壊 多くの死滅を招いている以上 このことは否定できない」と。 そして問う。 「環境保護の推進が どれほどの犠牲を伴うものだとしても 今償うチャンスを逃して 一体我々に何が残るのか?」(p.62-63) * * * * この作品が描かれ、わたしが共感を覚えたのたのは11年前。 問題意識を共有しながら、 「なるべく電気を使わない」という程度のことしかして来なかった。 この大事故を機にもう一歩踏み出すことにし、 国連から国際会議で正式な参加者として活動できる 「総合協議資格」を与えられている、(HPより) 国際環境NGO「グリーンピース」が募っているオンライン署名 「枝野さん、安全な電気がほしいです」に、署名した。 わたしはおっちょこちょいで動きやすい者なので、 これを読まれた方にも署名を、とは言わない。これに限らず、 自分としてどの行動をするのが良いかを考え、選び、行動することが、 「責任は他の誰かにある」という姿勢、 原発関係者を今ただ責めることから、抜け出ることにもつながる。 ・『ナウシカ』の比喩を用いた文章の全文はこちら。 ・ 獣木野生のサイトの、地震・原発関係の記事は、こちらとこちら。 ・ グリーンピース「枝野さん、安全な電気がほしいです」はこちら。 ・ フード・バンク「セカンド・ハーベスト」の、東北での活動状況はこちら。
by pippinrose
| 2011-04-01 11:45
| 震災
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Comments(2)
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mohariza6 at 2011-04-11 14:09
『ナウシカ』の巨神兵について、幣ブログで引用させていただきました。
原発と云う<「毒の光」を放ち周囲を破壊する「巨神兵」>を創ったのは、人間の「CO2削減」と云う環境問題を解決するという虚構の空論の産物の代物で、<原発自身>が問題では無かった筈だと思います。 全て、人間が創り出した<代物>で、その処理は、人間(:責任者=たとえ、原発推進者に騙されたとしても、それを容認した人類全体 )が処置する責任を取らない といけない、と思います。 一切、責任逃れをせず、(原発)そのものを、自己(:容認した人類として)の責任の下で、処理するのが、人間人類 の責任と思います。
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ぴぴん
at 2011-04-12 10:51
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moharizaさん だまされたひとも、だまされたがっていたひとも、
だまされてなかったけれどもこうならない方に掛金をおいていたひとも、 自分の判断のあやまりを見せつけられました。 それぞれにとって、責任をとるとはどういうことなんでしょう。 ひとのせいにできるうちはある意味、楽なのですが、 いずれ、引き受けざるを得ないものとして はっきりして来るのかなと思います。
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