by pippinrose カテゴリ
以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 more... 最新のコメント
記事ランキング
ブログパーツ
|
2009年 05月 26日
翌日、ミラノ市内を三時間で観光するバスツアーに参加。
今回の旅程では、わたしがミラノ経由を主張した。 後期ゴシック建築のミラノの大聖堂と、 ダ・ビンチの『最後の晩餐』を見たかったからだ。 ゴシック建築の教会でわたしが惹かれるのは、外観でも内部の空間でも、 その「上へ上へと引かれる上昇感」だ。 昇天したイエスを思う気持ち、天に向ける祈りがあの形を作らせたと聞いた。 ミラノの大聖堂は、ゴシック建築には違いないだろうが、 幅のある正面部から見えるたくさんの尖塔に、上昇の意思を鋭く感じることはなかった。 尖塔の頂点を聖人像が踏んで押さえ、全体としてはむしろどっしりと地に座している。 尖塔を飾りとした「デコレーション・ケーキ」のようだった。 内部に入ると、中央の身廊からまっすぐ奥の祭壇に目が向く。 柱頭の装飾によって上昇線が断たれ、むしろ奥行きに視線を誘うのだ。 両側に側廊が二重に厚く控えており、ステンドグラスの存在感は薄い。 外観からも内部からも、わたしがイメージしていた 「ゴシック教会の上昇感」を得ることはなかった。 前日からのカルチャーショックもあり、拍子抜けもあってか、 この聖堂をきちんと見ることはできなかったと自分で思う。 ただ「ゴシックはこう」という思い込みが壊せたという点で、 行った甲斐はあったと言える。 『最後の晩餐』は、これまでにNHKの番組などで、 作品解説を聞きながら、なめるように画面を見て来てしまったので、 自分の目が、その解説どおりに作品を見てしまっているのを感じた。 四群に別れた十二弟子の構成と彼等の手の表情、 イエスの背後の窓から見える空が、光背の明るさをもたらす。 絵の中の天井の模様や壁のアーチが、絵のある部屋との連続性を意図しており、 だまし絵のように、その場面が今そこに生じているように見える。 背景のタペストリの掛かり方や模様を意識し、衣服の色のつらなりを眺める。 見手から一番近い低い位置には大きな足が動き、顔を上方に仰ぐことになる。 絵の中央右手に立って、弟子たちの手の動きをひとりひとり真似てみていると、 イエスの落とした眼差しと伸ばした左手の延長線上に、自分が居るのに気づく。 視線を求めても合わず、寂しいようなものが流れ落ちてくる。 こめかみを横切る地平線で明暗に別れる彼の頭部に、痛みを感じる。 その「寂しいようなものの流れ落ち」と「頭部の痛み」。また、 元は修道士の食堂だった部屋の中で『最後の晩餐』を見た体感だけは、 事前学習とは離れた、わたしの実感だった。 足を運んだだけのことはあった。 ミラノを再訪することはもう無いだろうが、万が一あれば、 『最後の晩餐』は、ぜひもう一度見に行きたいと思う。 その時にもまた何か、別のものを感じるかもしれない。 300mmで撮ったスイスの満月。 二重ガラスの窓越しに撮ったので、右手に影が写っている。 今日で、スイス・イタリア旅行記を終わります。
by pippinrose
| 2009-05-26 11:14
| 外国
|
Comments(2)
Commented
by
幽霊読者
at 2009-05-26 15:10
x
お疲れさまでした、大変興味深く読むことができました。
万が一というお言葉それはきっとまた何かのきっかけで訪れなければならない暗示だと思います。 神の啓示までは行かないと思うけどね(笑
Commented
by
ぴぴん
at 2009-05-26 19:17
x
幽霊読者さん そうでしたか。そう言っていただけるとうれしいです。^_^)
>訪れなければならない暗示 おお! そうでしょうか。 あんなに嫌いなミラノでも、もういちど行くことになるんでしょうか... 行くのなら、こんどはミケランジェロの遺作のピエタも見て来たいです。 欲張りですね... ^_^;)
|
ファン申請 |
||