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2009年 01月 27日
犯罪に関わった・巻き込まれたひとたちの「痛み」に対する手当は、
法の裁きのみでは尽くせない。 「犯人が死刑になっても、死んだ者は帰って来ない」という通り、 社会的な裁きは裁きとして、衝撃に対する内的作業を、 痛んでしまったひとたちは、強いられる。 その作業をどのような方向で行うか、ひとつの示唆として、 エンライトやワージントンの提示する「赦し」の概念はあると思う。 彼等の研究は、英国の北アイルランドの紛争当事者の和解や、 犯罪加害者の教育プログラムにも応用されているという。 (朝日新聞 06/4/17 夕刊)。 アーミッシュによる「赦し」の表明がとても素早かったのは、 信仰を背景にした彼等の共同体の伝統に由来する。 この事件に対して特別だったのではなく、 それが彼等の文化的「レパートリー」なのだとのこと。 被害感情に溺れ続ける苦しみとは質は違えど、 「赦し続ける」ことも苦しい営みであり、 「宗教があると楽」とか「信仰者は強い」という話ではないようだ。 そもそも「赦し」は、特定宗教の信仰に依るものではあるまい。 「こんなにもひどい被害を受けたのに、このうえさらに事件の首謀者を 恨み続けるような人生の無駄をしたくないと考えている」と著書に記した、 河野義行さんの態度も、「決意された赦し」であると思う。 また十五年戦争後、戦中の日本軍のふるまいを 「許そう、しかし忘れまい」“Forgive But Not Forget”と置いて、 戦後日本との関係回復を目指した諸国の姿勢も、同様の理性だ。 ひとを恨み、「死ね」と呪ったことのあるわたしからすると、 被害体験が織り込まれてしまった後に再び始まる「新しい平常」を、 その体験に制圧させてしまわないための「闘い」のひとつの戦略が、 「赦し」であり得ると思う。 体験の生々しいうちには、理性による制動は効きにくい。 たとえば今のパレスチナにそれを言えば、冷血に響くだろう。 神ならぬ身で、他者に「赦せ」と命じるならばおこがましい。 しかし被害を超克するために、報復以外のひとつの選択肢として、 「怒り憤る権利の放棄」という闘い方も、あるのだと思う。 共同体の伝統文化に裏打ちされた 「アーミッシュの赦し」に関心のある方は、 本書にあたってみてください。真面目な良い本です。
by pippinrose
| 2009-01-27 09:43
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